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ドラムがちょっと叩けるタケちゃんの人生追求ブログ

最後まで音楽に人生を捧げた「久野三知男」先生~生き様編~

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ふと昔の映像を再現化したDVDを見つけた。

恩師であった「久野(ひさの)」先生からの贈り物。

 

小学校の時の器楽部顧問だった久野先生。

彼は数年前にお亡くなりになりました。

 

最後に先生にお逢いしたのは、もう20年以上も前のこと。

「あの時、先生に逢いに行っていたら良かった。」

悔やんでも悔やみきれない後悔だけが、今もずっと私の心に残っています。

 

~歴史~

 

 

1.【久野先生との出会い】

 

小学校や中学校の運動会では、昼食時間の合間に、器楽部とバトン部による「マーチング演技」が行われるのが定番でした。

 

このマーチングの太鼓がやりたくて私は、勇気を出して1人で器楽部を訪れました。 

 

1人で来た私を見て感心した新任顧問は「穏やかなオジさん」といった印象・・・それが久野先生でした。

 

2.【器楽部に変化】 

 

大好きだったマーチングはあっという間に違う編成に。

もともと管楽器と打楽器の編成だった器楽部は、あの「久野先生」によって、大きく変化します。

 

それは久野先生の大きな挑戦でした。

「島の子供たちと共に、島の楽器を使った音楽を作り、守っていきたい」

確かそのようなコンセプトのもと、これまでに無い器楽部を作り上げると。

 

コンサートでは、曲によっては生徒に指揮をさせ、先生はほんの2曲ほどの指揮。

生徒は皆ズボンを着用。

先生による斬新なアイディアが続きました。

 

そして奄美の「三味線(しゃみせん)」や「チヂン(島太鼓)」をたくさん購入。

三味線は、先生自らが運指表や楽譜を手書きで作成。

基本の調律からチヂンの扱い方も全部、先生が1から教えました。

 

当時の校長先生は、久野先生のハッキリとしたイメージ像と熱意に感銘されたのか、学校側としてもとても協力的に尽くしていたと、後から噂で聞きました。

  

3.【今までにないジャンル「さざ波バンド」の誕生】

 

三味線のメインパートは「三味線教室」の生徒でもある優秀な奏者が担当。

 

でも島の楽器とはいえ、他の子供たちには三味線やチヂンを触れる機会は滅多にありません。

先生はそんなことはお構いなしで、他にもどんどん楽器を増やしました。

・やぐら太鼓

・ホラ貝(戦国時代の映画などで、戦いの始まりの合図によく使われる巻貝)

・サンバラ(波の音。大きなザルに小豆を入れたシンプルな手作り)

 

誰が何の楽器をするかは、久野先生の「評価」によって決められました。

三味線は先生お手製の楽譜「これができたら3級、2級、1級・・・」のような階級式になっていて、先生の評価により「ステージの前列、後列」のポジションが決まります。

 

やぐら太鼓やホラ貝も、まずは先生が1フレーズやって見せ、唐突に片っ端から1人ずつ「はい、やってみて」と同じフレーズができるかを試させます。

 

さらには「65点、90点、35点・・・」とその場で結果が言い渡され、最後に先生がメインパートを選抜するという仕組み。

 

弱肉強食の中で、みんな自分のポジションを掴むため、必死でした。

私は、演奏をカバーするための「エレクトーン」と島唄を歌う「唄者」に選ばれました。

島唄なんてもちろん知らなかった私は、選ばれた後も音源1つで耳コピーするという至難の課題を出され、必死に覚えました。

 

でも・・・誰しもが好きなポジションを勝ち取りたいと思うものです。

厳しい評価制度は高いクオリティを生み出す反面、子供たちの競争世界の中では「派閥」や「いじめ」が発生することも。

また、評価がなかなか上がらずモチベーションが下がり、辞めていく人も多くいました。

 

苦労の多かった久野先生。

新しいことを始めるのは、当然色んな問題があるもので・・・私の知らないところで生徒や一部の親に責められたことがあったそうです。

 

数人の生徒の前で、たった一度だけ涙を見せたことがあるのは、そのことだったのかもしれない。

 

でも先生は、前に進み続けました。

そんな久野先生が新生器楽部に付けた名は「さざ波バンド」でした。

 

4.【定期演奏会は『立ち見』の観客が出るほどに】

 

久野先生は、さざ波バンド時代にオリジナル曲「島のひびき」を作曲されました。

島唄をアレンジして作った作品で、楽譜はありません。

先生が1フレーズずつ、演奏して見せて「はい、やってみて」。

これだけで、あとはやりながら先生のイメージを元に1つずつパートを仕上げます。

 

当時の管楽器をやっていた生徒も、耳で覚えて演奏するので、とにかく全員が大変でした。

 

過酷でしたが、久野先生に妥協はありませんでした。

先生は絶対的な「曲やフォーメーションのビジョン」を持っていて、それを生徒に何とか伝えようと全身全霊で指導をされました。

「歌も音楽も魂なんだ」と・・・。

 

でも当時は小学生が相手・・・ガサガサする子だってたくさんいました。

先生は柔道の有段者。

言うコトを聞かない男子生徒(←矛盾したことでは無いです)は、先生が足払いで投げました(笑)

女子生徒はもちろん手加減しますが、指導中におしゃべりをすると厳しく怒鳴りました。

 

そんな先生の根気の指導が報われ、県のコンクールでは入賞し、サミットなどの大型イベントや合奏祭など、様々な場所で演奏を積み重ねました。

小学生の器楽部では珍しいバンド編成として、地元のメディアでも話題になりました。

 

そんな数々の活躍と話題のお陰で、定期演奏会の観客は毎年増えていきました。

県の文化センターでの開催。

私が現役だった頃の観客は、最高3,000人を超える「立ち見」がいたほどでした。

あの会場に響き渡る三味線と太鼓の迫力、スポットライトを浴びて島唄を歌った時の「指笛」など、会場の熱気は今でも忘れられません。

 

5.【思い出のDVD】

 

久野先生とは年賀状をきっかけにやりとりをするようになり、私は先生が鹿児島へ行ってからも互いの近況をやりとりしました。

 

それから数年後。

 

先生は退職され鹿児島の地で、長年の夢だった「新たな蛇味線(じゃみせん)バンド※」を結成。

※胴の両面部分に「ハブ皮」を張ることから、本来は「蛇味線」と言われており「蛇味線バンド」と名付けた。

(生前の久野先生による一説です。)

 

学生から社会人まで総勢40人ほどまでメンバーは増え、先生は退職金で「練習場」を作り、三味線や太鼓などを一式揃えました。

  

私は先生が結成した蛇味線バンドの、記念すべき初のコンサートにゲストとして、出演させていただきました。

ふと手にしたのは、その時のDVD。

先生がくれた、たった1つの「思い出のDVD」でした。

 

6.【先生に聞かせたかった『魂の島唄』】  

 

先生のハガキで「体調が思わしくない」と知ってから間もなく、連絡が途絶えました。

後に、久野先生が「パーキンソン病」と「認知症」を患ったと聞きました。

私は何度も三味線を持って、先生が療養されていらっしゃる施設に行こうとしたことがありました。

 

でも結局行くことはできず、そのまま先生は天国にいってしまいました。

  

大人になって初めて、先生の教えてくれた「島唄」を「魂」で歌いたいと思った私。

だからこそあの時、施設に行ってでも先生に三味線の弾き語りを聞いてもらいたかった。

たとえ先生が私を覚えていなくても・・・。

私が先生にしたかった恩返しの、最後のチャンスでした。

 

そのチャンスを逃した私の後悔は大きいです。

でも久野先生の、さざ波バンドの「一期生」であることを、私はずっと誇りに思います。

先生が最後まで音楽に人生を捧げた生き様、カッコ良かったです。

 

私に音楽の素晴らしさを教えて下さって、本当にありがとうございました。